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西蔵法師 −原作 河口慧海のチベット旅行記−
解説どうやら極楽浄土(〈幸あるところ〉という世界)に生まれ変われば、そこで覚りに至れると、涅槃(ニルヴァーナ)に達すると考えればよいような気がします。極楽浄土と輪廻転生との関係はそう考えてみるとして、ときに私は思うのです、まったく苦しみがなく安楽な世界は果たして面白いのだろうかと。私たちはいずれ苦しみがなく安楽な世界に生まれ変わるなら、いま苦しまなくていつ苦しむことができるのでしょう。 涅槃の考察 涅槃は有ではない。 もし、有であれば、老いて死ぬという性質をもつことになろう。 老いて死ぬという性質をもたない有などないからである。 もし、涅槃が有であるなら、涅槃はつくられたものということになろう。 つくられたものでない有などないからである。 もし、涅槃が有であるなら、どうして何ものにも依存せずに存在するであろうか? 依存しない有などない。 もし、涅槃が有ではないなら、どうして無が涅槃であるなどということがあろうか? 有のないところには、無は存在しない。 もし、涅槃が有ではないなら、どうして涅槃が何ものにも依らずに存在するであろうか? 何ものにも依存せずに存在するものなど存在しない。 蘊に依存して、生死往来するものが依存していないとき、これが涅槃であると説かれる。 師は、存在と非存在を断ずることを説かれた。 それゆえに、涅槃は有でも無でもないということが正しい。 もし、涅槃が、有であって、無であるなら、解脱は、有であって、無であることになってしまうので、あり得ない。 もし、涅槃が、有であって、無であるなら、涅槃は何ものにも依存しないことになろう。 なぜなら、有と無の両者は何ものかに依存しているからである。 どうして、涅槃が有と無の両者であることがあろうか? 涅槃はつくられたものではないのに。 有と無の両者はつくられたものなのである。 どうして、涅槃が有と無の両者であることがあろうか? これらの二つは同じところに存在することはないのに、 ─光と闇のように。 涅槃は、有でもなく、無でもないと言われる。 もし、有と無が成り立つならば、このことが成り立つことになろう。 もし、涅槃が、有でもなく、無でもないなら、 「有でもなく、無でもない」ことが何によって説明されよう? 涅槃に入った後も、勝者が存在する、とも、 存在しない、とも、 存在しかつ存在しない、とも、 存在しないしかつ存在しないこともない、とも言われない。 勝者は、現に住しつつ存在している、とも 現に存在しない、とも、 現に存在しかつ存在しない、とも、 現に存在しないしかつ存在しないこともない、とも言われない。 輪廻と涅槃とを区別するいかなる小さな隔たりもなく、 涅槃と輪廻とを区別するいかなる小さな隔たりもない。 涅槃の究極が、そのまま、輪廻の究極なのである。 涅槃と輪廻の間には、隔たりなど微塵もない。 入滅後、勝者は存在するかどうか、 世界は有限であるかどうか、世界は無限であるかどうか、など、の見解は、 涅槃と、未来の限界と、過去の限界と、に依存している。 一切のものは空であるから、 何が無限であろうか? 何が有限であろうか? 何が無限であって、有限であろうか? 何が無限でなくて、有限でなかろうか? 何が同一であろうか? 何が異なるのであろうか? 何が永遠であろうか? 何が無常であろうか? 何が無常であって、永遠であろうか? 何が無常でなく、永遠でもなかろうか? あらゆる対象化が鎮まり、妄想が鎮まり、仏は、誰のためにも、いかなるときも、いかなるところであっても、教えを説かなかったのである。 これはナーガアルジュナ(龍樹菩薩)の中論の一節です。龍樹菩薩は輪廻を涅槃とは隔たりのないものと言いました。「虚無主義」と批判的な響きさえ漂わせて評されることもある空観論者、龍樹菩薩が示した涅槃とは生死流転を繰り返すこの現実世界そのものであって、現世肯定を説いたようにも私には思えます。 けれど戦争や飢餓で苦しみを克服する術すらまったく持ち得ず死にゆく人々に、苦しみがなく安楽な世界など面白くないとは私にはとても言えません。そんな人たちには極楽浄土や、もしかしたら輪廻転生が希望の光になるのかも知れません。 |
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(C) Tabinchu Terada |