雪中の読経

 それから、また雪がたくさん降ってきました。さらに激しく降ってきてどうにもこうにも進めないほどです。チベット服も全身湿って肌まで通ってきました。そのうえあまり大きな雪が降ってくるものですから遠くも見えません。磁石でもあれば出して見ることも出来ますが磁石は既に失くしてただ無(む)闇(やみ)矢(や)鱈(たら)に進んで行くのですから実に危険です。ところがこういう場合に地獄に仏で、一人の乗馬者に逢いました。
 その男が慧海を見まして、
「どうもこの雪の中でそんな事をして居っては今晩とても寝られやしない。まあ今頃の事だからまさかにこの辺で死ぬ気遣いはあるまいけれど、何しろ非常の寒さだから死ぬような苦しみをしなくちゃあならん。聞けばお前さんはラサ府に行くという。少しは廻り路だけれども私のテントのある所へ来て泊っちゃどうか」
といってくれました。幸いその夜はその人に従いついて行くことにしました。荷物は馬に幾分か載せて貰って自分は山羊を連れその雪中を冒してその人のテントに着きました。

 そして翌日またその親切にしてくれた人とは別れ、それ以外の人と一緒に雪の積っている中を六里ばかり東南の方へ進みました。ところが、皆テントを張り詰めたあと、「どうか今晩宿を貸してくれ」といって頼みましたところがなかなか貸してくれませんでした。押して頼んでも貸してくれないのでした。それからまた他のテントへ参って頼みましたけれどやっぱり貸してくれませんでした。
 ちょうど五、六軒のテントに就(つ)いて言葉を尽し事情を分けて頼んでも皆貸してくれませんでした。一番仕舞のテントへ来てまた慧海は
「こんなに積って居る雪の中へ寝ると凍えて死んでしまう。また夜の中に雪が降らないとはいえぬからどうか宿を貸してくれ。幾分のお礼をしてもよいから」
と拝まぬばかりに頼みました。するとそこにはお婆さんと娘さんと二人しかおりませんでした。お婆さんは、
「お前は女ばかりと侮ってそう押付けな事をいうか、ここにはテントが五つも六つもある。男の居る幕(うち)へ行って頼めばよいのに女ばかり居る所へ来て押し付けに泊ろうとはもっての外だ。行かないか。行かなければぶん撲(なぐ)るぞ」
と言っていまヤクの糞の火を掻き捜しているチベットの火(ひ)箸(ばし)を持って慧海をぶん撲ろうとして立ち掛けたのです。

 仕方なく慧海は、五〜六軒の暖かそうなテントを眺めながら、自分とは縁のない人たちだとあきらめて、雪が積もった外で寝ることにしました。しかし縁のない人もこうやって頼んだのが縁になって、この後どういう縁が付くか知れんからこの人らが後に仏教に入るようにとお経を読むことにしました。

「如是我聞(によーぜーがーもん) 一時仏住(いちじーぶつじゆう) 王舎城(おうしやーじよう) 耆闍崛山中(ぎーしやツくーせんちゆう) 与大比丘衆(よーだいびーくーしゆー) 万二千人倶(まんにーせんにんくー) 皆是阿羅漢(かいぜーあーらーかん) 諸漏已尽(しよーろういーじん) 無復煩悩(むーぶーぼんのう) 逮得己利(だいとツこーりー) 尽諸有結(じんしよーうーけつ) 心得自在(しんとくじーざい)・・・」

 慧海が一生懸命にお経を読んでおりますと、今頼んだテントの娘がちょっと顔を出して暫く慧海を眺めました。そして、急に幕内(うち)へ入ったと思うと、直ぐに慧海のところにやって来て、
「どうかそんな事をして下さらずに内へ入って緩(ゆつく)りお休み下さい。今晩いろいろ供養を上げますから」
といってとうとう家(うち)へ泊めてくれることになりました。どうやらお婆さんに
「あのラマは私共が宿を貸さなかったのを怒って呪いを唱えて我らを殺すか病気にするような行いをして居る。非常に腹を立てたものと見える」
といって話したのでしょう。果たしてその阿母(おつか)さんは余程妄信の深い人と見えて、「そりゃ堪(たま)らんからお前が早速行って幕内(うち)へ招待してそういう事をしないようにして貰わなくちゃあならん」と言い付けたようです。慧海は吹き出して笑いそうになりましたが、この難儀を免れたのも仏の教えのお蔭であると思いに悦(よろこ)びました。

 例のごとくその夜は観法で過ごして翌日早くそこを立って一里ばかり東南の山中へ進んでいきますと、その辺には誰も居らない筈なのに、ついにその岩の向うの方から二人の人が現われて慧海を呼び止めました。強盗の様子にも見えないけれど刀は二人とも挿していました。多分この土地の土人がどこかへ行くのでもあろうと思って何心なく立ち止まると、彼らは岩の間からこっちへ降りて来て
「お前は何を持って居るか」
というから
「私は仏法を持って居る」
といいましたところが彼らには判りませんでした。
「お前の背負って居るものは何か。」
「こりゃ喰物だ。」
「懐の脹(ふく)れて居るのは何か。」
「これは銀貨だ」
といいました。そうするとその男は二人とも慧海の前に立って慧海の持っている杖をいきなりふんだくってしまいました。「ははあこりゃ強盗だな」と思いましたから、じきに決心をして
「お前たちはなにか私の物を欲しいのか。」
「もちろんの事だ」
と大いに勢い込んでいました。
「そうかそんなら何も慌(あわ)てるには及ばない。お前の欲しい物をすっかり上げるからまあ緩(ゆつく)りするがよい。何が欲しいか」
といいますと
「まず金を出せ」
といいます。それで銀貨の入れてある袋をそのまま遣りました。すると
「背負って居るものにどうやら珍しい物がありそうだ、下(おろ)して見せろ」
というから「ハイ」といって下し、また
「山羊の背に負わしてあるものはそりゃ何か下して見せろ」
というから「ハイ」といって下しますと、二人で穿(せん)鑿(さく)してお経とかまた彼らの要らない夜着とか重い物だけはそのまま還してきました。「これだけは俺等(おいら)が入用だから貰って行く」と言って喰物もすっかり取ってしまいました。ちっとも失くなってはこっちが困りますから少し貰わなくちゃならんと慧海は思いました。

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