女巡礼の恋慕

 それからそこへ逗留しておるうちに慧海が長い間連れて歩いた二疋(ひき)の羊が失(な)くなったていました。その羊はどっかへ逃げて行ってしまったといいますが、実はその三人兄弟の一番の弟が大分に悪い男で、金が欲しいというところから羊を盗んで売っていたのでした。慧海は全く知らない風をして、「なあにそれだけ位のものは遣(や)ってよい」と考えておりました。ところで慧海が一番困ったのは女巡礼に恋慕されたことでした。一緒に参詣しました巡礼者らは非常に慧海を信仰して誉(ほ)め上げる余りにそのうちの歳のいかない娘が非常に思いを深くしたのでした。

 その後、宿主らはラクガル湖へ逗留して遊猟に出掛けました。そのとき慧海はテントの中で漢字の法華経を読んでおりました。

「如是我聞(によーぜーがーもん) 一時仏住(いちじーぶつじゆう) 王舎城(おうしやーじよう) 耆闍崛山中(ぎーしやツくーせんちゆう) 与大比丘衆(よーだいびーくーしゆー) 万二千人倶(まんにーせんにんくー) 皆是阿羅漢(かいぜーあーらーかん) 諸漏已尽(しよーろういーじん) 無復煩悩(むーぶーぼんのう) 逮得己利(だいとツこーりー) 尽諸有結(じんしよーうーけつ) 心得自在(しんとくじーざい)・・・」

するとその一番兄の女房とそれからダアワという娘(仲弟の女)が外で何か話をしていました。
 始めは何をいって居ったかよく分りませんでしたがラマラマという声は確かに慧海の事を意味しているようでした。慧海は、聞くともなしに聞きますと、「この間も私の内(夫を指していう)が話したことだが、もしあのラマが俺の姪(めい)の婿(むこ)に成らないようであれば、屠(ほふ)って喰物にするという話であった。実際内のも非常に怒って居るんだからその訳をよくいって一緒になったがよかろう」ということを慧海に聞えよがしに言っていたのです。

 慧海はどうも驚きました。けれどもその時に決心したのです。「もしかかる事のために殺されるならばこりゃ実にめでたい事である。我が戒法を守るということのために殺されるというのは実にめでたい事である。これまでは幾度か過ちに落ちて幾度か懺(ざん)悔(げ)してとにかく今日まで進んで来た。しかるにその進んで来た功を空しくしてここで殺されるのが恐ろしさにあの魔窟に陥るということは我が本望でない。ただ我が本師釈迦牟尼仏がこれを嘉(か)納(のう)ましまして私をして快く最期を遂げしめ給わるように言っておる」という観念を起して法華経を一生懸命に読みました。

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