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西蔵法師 −原作 河口慧海のチベット旅行記−
天然の曼荼羅カイラス山そしてツェコーロウというマナサルワ湖辺の寺に着いて宿りました。ところが、この寺の和尚からして一つの驚くべき面白い話を慧海は聞きました。このラマは五十五、六の人で無学ではありますけれども、ごくおとなしい人で嘘なんかちっとも言わないような人でした。で慧海にいろいろ仏法の話を聞いているうちにその人の言うには、「この頃わが国の坊さんの行の悪いには閉口しました」と言うのです。「それはどういうことか」と尋ねたら、「まあ何でもない平僧(へいそう)ならば不品行な事をやっても目に立ちませんけれども、このマナサルワ湖の中でも有名な寺のラマ、アルチュ・ツルグー(アルチュの化(け)身(しん)という意味)が美しい女を女房にして寺の財産を悉(ことごと)く女房の家に送って、揚(あげ)句(く)の果(は)てに残りの品物をすっかり纒めてどこへか逃げてしまった。様子を聞けばホルトショの方に行って居るというがあなたはお逢いにならぬか」という話でした。 慧海は実に驚きました。慧海に親切にしてくれたかの美人を妻としたるラマが、不埓(ふらち)にも寺の財産を女房の里に送り、そのうえ寺の財産を有らん限り持って田舎へ指して逃げて行ったとは、人は見掛けによらぬものだと慧海は実に驚いたのでした。ところで慧海も嘘を吐(つ)くことは出来ませんので、こういう訳で宿りを求めて大変お世話になったと言いますと、「いやあのラマは表面(うわべ)は誠に優しくって慈悲深いように見えますけれども、恐ろしい悪い奴です」とこの寺の和尚は言いました。 その夜は其寺(そこ)へ泊り、翌日また湖水の辺に出て四方(よも)の景色を眺めながらあちらこちらを慧海が散歩しておりますと、そこへネパール人及びインド人などのごく熱心なヒンズー教の信者が参詣に来ており、午前十時頃から湖水の中で礼拝をしていました。これは仏教徒でなくヒンズー教徒で、このマナサルワ湖を霊地とし、向うに見えるカイラス山をヒンズー教の塵訶湿婆(マハーシッバ)(シバ神)の霊体として尊崇礼拝(そんそうらいはい)しているのでした。 それらの人が慧海を見て「あの人は仏法のありがたいラマであるらしい」と言って、いろいろな奇なる乾(ほ)した樹の実などをくれました。その夜もその寺へ泊り、翌日また湖水に沿って西北の山の中に進んで行くと、ちょうど四里ばかりにして向うにラクガル湖が見えます。その湖水の形はちょっと瓢(ひよう)箪(たん)のようになっていますが、マナサルワ湖よりはよほど小さいものでした。ところでだんだんその方向に進んでまた三里ばかり山を登りますと、よくその湖の水面が見えました。 |
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(C) Tabinchu Terada |