天然の曼荼羅カイラス山

 慧海はこの時位嬉しい事はありませんでした。宿る時分にはちゃんとテントの中に寝込んで、一番上座に据えて貰ってヤクの糞を拾いに行く必要もなければ水を汲みに行く世話もないのです。じっと坐り込んでお経を読み坐禅をするのが仕事で、夜は説教をしてやる、それだけの勤めで気も安楽ですから自分の身体も余程強くなったように感じました。

 やがて慧海たちは、マナサルワ湖の端に到着しました。その景色の素晴らしさは実に今眼に見るがごとく豪壮雄大にして清(しよう)浄(じよう)霊(れい)妙(みよう)の有様が躍々として湖辺に現われておりました。池の形は八(はち)葉(よう)蓮(れん)華(げ)の花が開いたようでした。そして八(や)咫(た)のうねうねとうねっているかのようでした。湖中の水は澄み返って空の碧々(へきへき)とした色と相映じ全く浄玻璃(じようはり)のように光を放っているのです。それから自分のいる所から広い湖面を隔てて西北の隅に当ってはカイラス山の霊峰が巍然(ぎぜん)として碧空に聳え、その周囲には小さな雪峰が幾つも重なり重なって取り巻いています。その有様は五百羅漢が釈迦牟尼仏を囲み説法を聞いているような有様に見えてきました。成程天然の曼陀羅であるということはその形によっても感じられました。そこへ着いた時の感懐は、飢餓乾渇の難、渡河瀕(ひん)死(し)の難、雪峰凍死の難、重(おも)荷(に)負戴(ふたい)の難、漠野(ばくや)独行の難、身疲(しんぴ)足疵(そくし)の難等の種々の苦艱(くげん)もすっぱりとこの霊水に洗い去られて清々として自分を忘れたような境涯に達したのでした。 そもそもこの霊場マナサルワ湖は世界中で一番高い所に在る湖水でその水面は海上の水面を抜くこと実に一万五千五百尺以上にあるのです。この湖水の名をチベット語でマパム・ユムツォ(〔無能勝母湖〕)といっています。また梵語(サンスクリット語)には阿耨達池(アノクタッチ)といい漢訳には無熱悩池(むねつのうち)としてある名高い湖水であります。

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