無人の高原

 余り寒気に打たれたものですから、この筋肉の働きが鈍くなったということは察せられますけれども、いかにも向うに進めないのです。もう一歩も動けなくなり、その辺へ野宿することにしました。まずヤクの糞(ふん)とキャンという野馬の糞を拾いました。それを薪(まき)にするのです。慧海は自分が集め得られただけのヤクの糞および野馬の糞を真赤な火になるまで燃やしてその上へ砂を打掛(ぶつか)けて埋め火にしておきました。雪豹などの猛獣を避けるためには火を夜通し焚いておく方がよいのですが、山の上かどこからか泥棒がその火を見てどこかの山の端から尋ねて来られる恐れがあるからです。こうして、泥棒を防いで、翌朝まで寒さのために凍えて死ぬを避けるのでした。


 さて翌日、川に沿って登って行けと言われたのか降って行けと言われたのか慧海は不意に忘れてしまいました。確かに登って行けと言われたように思いましたが、登って行く方の山が高く、とても大きな荷物を背負ってはとても登れないと慧海は思いました。それでこの川に沿って降って行きましたがその路は間違いでした。ずっと川に沿って二里ばかり降ると大分広い原に出ました。山の中でこの荷物を背負って居ちゃあとても堪らないので慧海は少し安心しました。そこで磁石を振り廻して見ると西北に向うには自分の降った川を向うに渡らなくてはならないのでした。ところがその川はとても冷たいので慧海は渡りたくありません。どうしようかと暫くそこに立っていると向うからお坊さんが渡って来ました。それも慧海のような巡礼者であって、カムという国からわざわざゲロン・リンボチェ比丘尊者に会いに来たんだそうです。そこで慧海はこの人に道を尋ねました。
「これから私はカイラス山の方に行かなくちゃあならないがそのカイラス山に行くにはどう行ったらよかろうか。」
「それは向うに行かねばならん。これから二日ほど行くと人の居る所に出られるからそこで尋ねるがよかろう。これをずっと行くとここから見えて居らないがその原の中にテントがある。そこへ指して行けば必ず泊る所が得られるから」
といいます。
 そこで慧海はその坊さんに休息して下さいと言って、それからその坊さんに乾桃を多分に遣(や)りました。実は重くって堪(たま)らないですから沢(たく)山(さん)遣ったのでした。そうしたところがその坊さんびっくりして悦びました。で、あなたにこんなに貰う訳がないお気の毒だと言います。
「いや実はあなたに頼みたいことがある。この荷物を向うの岸まで渡してくれまいか。そうでないと私は大分病気でヒョロヒョロしてどうもこの荷物を持って渡った分にゃあこの急流に押し流されてしまうかも知れないからどうか渡してくれまいか」
と言って頼みますと、「いやそれは何でもない事だ、渡して上げよう」と言います。ちょっと見たばかりでも誠に強そうな坊さんです。そのはずです。カムのいわゆる強盗商売本場の国の人間ですから非常に強い者でなくては巡礼が出来ないのです。そこで何でもなく重い荷物を持ち平気で慧海を引っ張って向う岸に渡してくれました。
 慧海は随分救われた心地がしましたが、だんだんテントのある方へ指して進んで行ってもなかなかテントは見えません。ところで慧海はその時は疲労がだんだん烈(はげ)しくなって仕方がなくなって来ました。何か胸に詰って来たようになったからじきに宝丹(ほうたん)を取り出して飲みました。

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(C) Tabinchu Terada