無人の高原

 するとドッと一つ血を吐きました。こりゃうかうか進んで行くとつまりテントの在る所に着く前に死んでしまうと考え、また野宿することにしました。ヤクの糞を拾いに行く元気もなくそこに倒れ込んで前後知らずに寝てしまいました。すると何か顔を酷く打つものがあるのでふと眼を覚すと大変大きな霰(あられ)が降っていたのでした。顔といわず身体といわずすべてバラバラバラと打ち付けてきます。それからまず起き上ろうと思って坐ろうとしても身体中がメリメリと痛いのです。
 これでは今日はとても進むことが出来ないから今晩はもう一晩ここへ泊まることにしました。ヤクの糞を捜しに歩くことも出来ません。ツクツク(裏は赤い羊毛、表は厚い帆木綿のような切布で作った四(よ)布(の)蒲団に似たもので目方はおよそ三貫目位のもの)という羊毛の大きな夜着のような物を頭から被(かぶ)って下には羊の毛皮の敷物を敷きましてそれでそこへ坐禅することにしました。夜分になり、月も明らかに漠々たる原野を皎(こう)々(こう)と照している高原の夜景の中ですが、慧海は身体の各部の苦しみに心を奪われて、始めは何ということなしに暫く過しました。けれど、ただ苦しい方にばかり観念を奪われてはますます苦しくなるので、ここで本当に苦しいところを押し強く坐禅の妙境に入ってみようと心を転じました。するとその辺の場所を実に面白く感じることができました。その観念の為にその夜は寒気(かんき)の苦しみにも打たれず、また夜の明けぬにも頓着せずについ暁まで坐禅をそのままに押し通すことができました。そうして翌日になって乾葡萄を食べそれからその荷物を集めに掛ると身体の各部の苦痛は大分薄らいでいました。それからだんだん北東の方に向って進みました。その辺に小流れの水があったので例のごとく焼麦(むぎこがし)粉を喰ってその小川を渡ると小さな岡がありました。その岡を踰(こ)えて向うを見ると遙かの彼方に白いテントと黒いテントが見えます。
 そこまでどうやら着きますと、その一番大きなテントの中からチベットには稀なる美人が顔を出して慧海の様子を暫く見ていました。


続く



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