無人の高原

 漸(ようや)く教えられた川端に着いて麦(むぎ)粉(こ)を食べ、自分の穿(は)いている履を脱ぎ股引も取ってしまいずっと裾を上まで捲り上げて、川の浅そうな所へ飛び込みました。ところがびっくりするほど冷たい水で自分の身が切られたかと思うほどの感じに打たれたから一遍に後戻りして飛び上がりました。こう冷たくては堪りません。一町半もあるこの冷たい川を渡(わた)ってはあるいは川の中で死んでしまうかも知れないと慧海は暫く考えていましたが、もうその冷たさがずっと身体(からだ)に廻って少し震え気味になりました。
「こりゃいけない、どうしようか知らん」
と考えているとふと思い付きました。かねて堺の岡村の丁(ちよう)子(じ)油を持っていたのです。「これを塗るべし」と思って、慧海は早速丁子油の瓶を出して身体にも足にも塗りつけました。幸い日が照っていましたし油をぬり付けて摩擦したので身体も大分温かくなりました。
 それから「ぼつぼつ渡るべし」と言って慧海はまた冷たい川に飛び込みました。それでも実に冷たいのです。始めは冷たくって痛かったのでしたがしまいには覚えがなくなって足が川底に着いているのかいないのか少しも分かりません。ただ杖が二本あるものですからまあその二つの杖を頼りにして漸く足を支えて向うの岸まで転げそうになって上りました。川はかなりの急流で深さは腰位までありました。向う岸に上った時は実に到(とう)彼(ひ)岸(がん)というような快楽を得ました。それからまあ冷たくなっている所を摩擦するのが役ですから日に乾して摩擦しようと思いましたがなかなか動くことも出来ない。もちろん荷物はそこに卸してその辺に転がって見たりいろいろな事をして暫くそこに留まっておりました。大分よく成りましたしほとんど午後の二時頃にもなったものですから、「少し進んで行ったらよかろう」という気になって、だんだんと教えられた山の間を向うに進んで行こうと考えて立ちました。ところがどうも足がだるくなって抜けるかと思うような具合でなかなか歩けないのでした。

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