深山老婆の親切

 別に疑っているような様子も見えません。
「私はラサの方から参ったものでこれからカイラス山へ参詣する者ですが、戸外(そと)へ寝るのも非常に寒くて困難ですからどうか一夜の宿(やど)りを願いたい」
と言ったところが、案外快く
「そんならばまずこちらにお入りなさい、大層大きな荷物で重うござりましょう」
というような話でじきに家裡(うち)に慧海を通してくれました。
「一体この辺はあなた方のお越しになる所ではないがどうしてこんな所にお越しになったか」
といいます。
「いや実はゲロン・リンボチェ比丘尊者の許(もと)へ尋ねて参ろうと思って図らず道を失ってこういう所に参りました」
「ああそうですか」
というような話で早速沸してある茶などをくれました。その茶は日本のような茶ではありません。バターも入って居れば塩も入っています。実のない吸物のようなものでした。それは日本人には始めの中は鼻先へ持って来られるような物ではありません。嫌な匂いがして飲むことが出来ないのです。けれども慧海は、少しく辛抱していると遂(つい)にはなかなかうまいと感じるようになりました。
 まずその茶を飲み終ると麦焦しの粉をくれるといいます。そこで、
「いつも私は午後にはそういう物を用いない。すなわち非時食戒(ひじじきかい)を持って居るのでこれは戴きません」
と慧海が断ると、そのお婆さんは大層感心していいました、
「こういう旅の中で非時食戒を守る人はごく少ない。そりゃあなた結構な事だ。しかしこれからそのゲロン・リンボチェ比丘尊者の所にお越しになるには、ちょうど一日ほどの道がござります。あのお方はチャンタン(チベットの西(せい)方(ほう)の高原)の名高い上人(ラマ)でござります。で、チャンタン中のラマであるあのお方に逢えば誠に尊い利益が得られます。折(せつ)角(かく)都からお越しになったのだからお逢いなさい。その中(うち)に私の息子も帰って来る筈ですが川の水が非常に冷めたくてなかなか徒渉(かちわたり)するのは困難ですから、明日息子と一緒にヤク(牛の類)に乗ってお越しになったらよかろう。息子にもこのゲロン・リンボチェ比丘尊者へ参詣するように言い聞かせます。」
そして慧海はその親切な老婆の息子とともにヤクに乗ってゲロン・リンボチェ比丘尊者の住む窟屋(いわや)を訪れることができました。

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