チベット西北原への廻り道

 慧海は荷持二人を気遣(きづか)いながら四十里の路を六日間かかってヒマラヤ山中のツクジェという村に着きました。その村に泊って一両日経(た)ちますとブッダ・バッザラ師の好意で送られた下僕は、「まあこの塩(あん)梅(ばい)なら大丈夫でございましょう」といって帰ってしまいました。けれども慧海はこの二人の下僕を追い払わなくてはチベット行を全うすることができないと心配しておりました。その矢先に、いろいろ話を聞きいたところこれから北のロー州を過ぎて行く間道にはこの三ヵ月以前からチベット政府が五名の兵隊を置いて道を守っているから、外国人あるいは風の変った人間は誰も入ることが出来ないようになったといいます。それはこの間道ばかりでなくいずれの間道でも、人の一人でも通って来られるような所にはすべて五名ずつの兵隊に道を守る事になったという噂(うわさ)でした。だんだん聞いて見ると事実で、とてもこの間道からチベット高原へ進むことが出来ぬようになりました。

 ツクジェ村には蒙古(モンゴル)の博士でセーラブ・ギャルツァン(慧幢)という人が来ていました。この人は、なかなかの学者で僧(そう)らに経文を教えている傍(かたわ)ら医者の真似をして居ります。その人がしばしば慧海の所へ遊びに来て話をしました。ある夜荷持二人が酒宴をして居りました揚(あげ)句(く)喧嘩を始め、いよいよ悪漢の本性顕わして互いにその身の悪事を罵(ののし)り合っていました。それを聞くと、老婆の言う通りの悪漢でその互いに言うところを聞きますと、
「手前は強盗をして人を殺したに似合わず表部は猫のように柔和な姿をして居るが、時が来たら鼠を掴(つか)むようにシナのラマに荒い仕事をしようと考えて我を邪魔にするのであろう」
といいますと、一方は
「そりゃ手前の考えを手前にいって居るのだからよしおれが邪魔になれば退いてやろう」
というような事で、非常な争いをした揚句慧海のに来て、
「彼が居れば私に暇をくれ」
と互いに言いました。それを倖(さいわい)いに慧海は相当の礼金を遣(つか)わしてその二人を解雇し、老婆にも小遣いとカタという礼意を表す白い薄絹とを与えて分かれました。

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