ネパール、カトマンズへ

 幸いにセゴーリの郵便局長をしているベンガル人が英語もネパール語も知っていましたので、慧海はその人にネパール語を教えてもらいました。そしてその復習をしつつ散歩していると、汽車から降りてきた人の中にチベット服を着けた四十恰(かつ)好(こう)の紳士と同じくチベット服を着けた五十余りの老僧とその下僕(しもべ)ともいうべき者が二人、都合四人連の一行が慧海の方に歩いてきました。
「こりゃよい所にチベット人が出掛けて来た。どうかこの人に一つ話をつけて一緒に行くような都合になればよい」
と慧海は考え、その人たちの傍に行き
「あなたはどちらへお越しですか」
と尋ねました。すると
「私共はネパールの方に行く」
と言います。
「それじゃああなたがたはチベットから来たのですか」
と慧海が尋ねると、
「いやそうでもないけれどもこの中にはチベットから来た人も居る」
と答えました。その人は慧海に向って
「あなたは一体どこか」
と尋ねますので
「私は中国(シナ)です。」
と答えました。さらに、
「どちらからお越しになったのか。海の方から来られたかあるいは陸の方から来られたか」
と慧海に聞いてきます。
 ここでもし海の方から来たといいますと彼らの疑いを受けて慧海は到底ネパール国にも入ることが出来ないことになります。というのはこの時分に海の方から出て来るシナ人はすべてチベットには入れない事になっているからです。陸の方から来たといえば大抵チベットから来たという意味になりますから、そこで慧海は
「陸の方から来た」
と答えて話をしながら慧海が泊っている茅屋(あばらや)の方へ一緒に歩きました。慧海が泊っている所は竹の柱に茅(かや)葺(ぶ)き屋根というごく粗末な家でその向う側にもまたそんなような家がありした。それは皆旅人の泊る所でしたが別段宿賃を払う訳でもなく、ただ薪(まき)代(だい)と喰物(くいもの)を買ってその代を払う宿でした。その紳士の一行も向い側の茅屋に入っていきました。
 暫くするとその紳士と老僧が慧海の所へ訪ねて来ました。そして慧海に
聞きました。
「時にあなたはシナ人であるというがシナはどこか。」
「福州(フーチユ)です」
と慧海が言うと
「あなたはシナ語を知ってるだろうな」
と返してきました。こりゃ困ったと慧海は思いましたが
「知って居ります」
と答えることにしました。その紳士は大分にシナ語が出来ますのでシナ語を使い出しました。慧海はそれほど深くには中国語を知らないので、甚だ困りましたが俄(にわか)に一策を案じました。
「あなたの使って居るシナ語はそりゃ北京語だ。私のは福州の言葉ですっかり違うからとても話が分らぬ」
と言いました。すると紳士は
「あなたはシナの文字を知って居るか。」
「知って居ります。文字で話をしましょう」
と言って鉛筆で書き立てました。ところがその紳士には解(わか)る字と解らない字があったものですから
「こりゃとても文字でも話をすることが出来ぬ」
と言います。
「そんならチベット語で話をしましょう」
といってチベット語で話をすることになりました。だんだん話が進みついに紳士は
「あなたは陸から来たというがチベットのどこから来たか」
と尋ねますから
「実はラサ府からダージリンを経(へ)てブッダガヤーへ参(さん)詣(けい)に来たのであります」
と慧海は答えました。さらに紳士は、
「ラサ府のどこに居られるのか」
と訊いてきます。そこで、
「セラという寺に居ります。」
「セラにジェ・ターサンのケンボ(大教師)をして居る老僧が居るがあなたは知って居るか。」
「そりゃ知らん事はない」
と話が続き、幸いに慧海がラマ・シャブズン師から聞いた事を答えることが出来ました。知っている話ばかり聞いてくれればよいけれどもそうでないと化(ばけ)の皮が顕われますからあまりむこうから尋ね掛けないように機先を制して、慧海はシャブズン師から聞いて居った機(き)密(みつ)の話を持ち掛けました。それはシャッベー・シャーターという方はこの頃自分の権力を張るために大分にテンゲーリンに対し悪意を持っている様子であるという次第を説明したところが、紳士は大慧海をもはや一点も疑いないように信じました。シャブズン師に聞いた話がここで役に立ったのです。

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