チベット語の勉強

 ダージリンに着いた慧海は、サラット師の別荘を訪ねました。その時期にはインドのアッサム地方に大地震があり、ダージリンもその地震の影響を受けていました。そのためにその家が大分毀(こわ)れたり歪(ゆが)んだりして、ちょうどその工事中でした。その翌日直(すぐ)にサラット居(こ)士(じ)と共にグンパールという所の寺に住んでいるモンゴルの老僧を訪ね、この老僧からチベット語を学ぶことになりました。一月ばかりするとサラット居士は慧海に
「あなたはチベットに行くというけれどもそれはもう止(よ)しにするがよい。実に困難な事である。しかしその困難を犯しても成(じよう)就(じゆ)すればよいけれどもまず絶望の姿である。だから止すがよい。もちろんチベット語の研究はここで充分出来るからその研究をして日本へ帰れば充分チベット語学者として尊崇を受ける訳じゃないか」
という話をしました。
「しかし私はチベット語学者として尊崇を受けるためにチベットに行くのじゃあございません。仏法修行のためですからどうしても行かなくちゃあならぬ必要があります」
と慧海が言うと、サラット居士は
「必要はあったところで到底成就しない事に従うのは詰らんじゃないか。行けばまあ殺されるだけの事だ」
と言います。
「しかしあなたはチベットに行って来たじゃあございませんか。私とても行かれぬ訳はないじゃあございませんか」
と慧海が詰め寄りますと、
「それは時勢が違っている。今日はもう鎖国が実に完全になったから私とてももう一遍行くことは出来ない。その上私はよい方法を求め通行券を得てかの国に入ったのであるが、今はとても通行券を得ることは出来ないからそういう望みは止しにしてただ勉学だけして日本に帰る方が得策です」
といって親切に慧海に勧めました。
「私はとにかくチベット語を学ばなくちゃあなりませずその上にただチベット仏教の学問だけ研究してもつまりませんから、どうか俗語をも学びたい。さもなければかの国に入るに困難ですからその俗語を学ぶ方(ほう)便(べん)をして戴(いた)きたい」
と言って頼みますと仕方がないと諦めてかサラット居士は早速引き受けてくれました。
 サラット居士はラマ・シャブズンという人をわざわざ呼び寄せて
「あなたの家内一同ここに引き移って、このジャパン・ラマにチベットの俗語を教えてやってくれまいか」
と頼んでくれました。それを快く承諾してくれたラマ・シャブズン師とその家族のところに慧海は身を寄せることになりました。
 そして慧海は、六、七ヵ月で一通りの事はチベット語で話せるようになりました。実に昼夜チベット語の習得にばかり時間を費やし、その結果として大抵これならばまあチベットへ行っても差支(さしつか)えあるまいというだけ俗語の研究も学問上の研究もほぼ出来て来ました。そこでいよいよ慧海はチベットへ行くことを決めました。チベットへの道は、いろいろの仏跡もありまたサンスクリット語の経文もあり、よしんばチベットに入れなくともこれらを調べに行くということができるネパールに取ることに決めました。
 慧海は、サラット博士だけにはチベットへ行くという秘密を明かしましたが、その他の慧海に語学を教えてくれたラマ達には俄(にわか)に用事ができて国へ帰ると告げてダージリンを出立しました。このダージリンにいるチベット人は慧海がチベットに行くためにチベット語を研究しているということを皆聞き知っていますので、慧海がチベットの方向に向って出立しようものなら必ず跡を踉(つ)けて来て殺すかあるいはチベットまで一緒に行ってチベット政府へ告口(つげぐち)をして賞金を貰(もら)うことができるという考えの人が随分いたからです。幸いにその時には日本の支援者たちの尽力で慧海に六百三十ルピーを送ってくれていました。送ってもらった金を持って慧海は一旦カルカッタに戻りました。

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(C) Tabinchu Terada