むかし、河口慧海というお坊さんがおりました。どのくらいむかしといいますと明治時代、日清戦争が終わったころです。慧海は、読み易い仏教の経文を社会に供給したいと考えておりました。それなら日本にすでにある漢訳の経文を読み易い日本語に訳せばよいではないか、と思えますが、サンスクリットの原書は一つであるのに漢訳の経文は幾つもあるそうで、ときにはその意味がまったく違っているものもあるといいます。そして、解り易い経文を拵えるためには原書を得るに限ると慧海は考えたのでした。
 なぜ旅先がチベットなのかといいますと、もはやインドには経典の原書はほとんど残っておらず、チベット語に訳された経文は文法の上からも意味の上からも漢訳よりも余程確かであったからだそうです。この説は当時インドを研究していた西洋人の間ではほとんど確定説でありました。印欧語族と呼ばれるように欧州人にとって、インドは自分たちの起源とつながると考えられることから大きな関心を集めたこともありましょうが、インドを支配する上ではインドの研究はイギリスには必要不可欠であったのでもありましょう。その頃、チベットはイギリスの侵攻を恐れて厳重に鎖国していたのでした。当時のチベットには軍隊を率いていくか、乞食になっていくかしかない命懸けの大冒険でありました。

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