“青の都、サマルカンド”−いくつもの砂丘を越えていくキャラバンが、雪山に源を発する清らかで冷たい水が流れる、椰子の緑溢れるオアシスをつないで、数々の品物とともに文化をも運んでいくシルクロードに壮大なロマンを感じていました。小生にとって、サマルカンドは、憧れの地だったのです。その憧れのの地は、かつてのソビエト連邦時代には訪れることが難しかい場所だったのでした。
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サマルカンド市街 |
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けれども、今や、ソビエト崩壊後、独立したウズベキスタンにも、日本からの直行便が飛んでいます。そして、ついに、念願かなって、訪れることができたサマルカンド!!しかし、そこは、片側3車線分はあろうかという広いアスファルト道路を挟んで、真っ四角で冷たいコンクリートの建物が並んでいるソ連風の味気ない街だったのです… |
それでも、“青の都”の豪華な建物は今も残っています。3つのマドラサ(神学校)が並ぶレギスタン広場は壮観というほかありません。写真のなかの人の大きさを見ていただければ、これらの建物の巨大さがお分かりいただけるでしょう。(↑&→)
これらの建物は、左側のウルグ・ベクのマドラサ以外は、ティムール帝国時代のよりも後代のものです。 |
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ティムール帝国は、英雄ティムールが、チャガタイ・ハン国によって支配されていたサマルカンドを、1370年ごろから支配することから始まり、1405年に没するまで35年間戦い続けることによって、西はイラク周辺から東はパミール高原周辺まで、その領土を広げました。チャガタイ・ハン国は、チンギス・ハンの次子チャガタイ・ハンがモンゴル帝国から分裂して建国し、その後も続いていた国でした。チンギス・ハンの中央アジアへの西征は1219年に始まり、降伏しない都市は徹底的に破壊され、多くの住民が虐殺されたといいます。 |
レギスタン広場のマドラサは、どれもティムールより後代に建てられたものですが、ティムールの時代の建物としては、グーリー・ミール廟があります(↑)。ティムールは、サマルカンドに宮殿などの壮麗な建物を建設さましたが、ティムール本人は、サマルカンドでも幕営してテントで生活していたといいます。ティムールは、70歳を超えた年齢での中国・明への進軍の途中で倒れ、今は、この廟の中に眠っています。 |
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サマルカンドは、今や、すっかりソ連風の街ですが、サマルカンドと同じくシルクロードの要衝の街だったブハラ(↑)は、今も、しっかり昔の街並みが残っています。街を歩く人々も、民族衣装を身にまとう姿が少なくありません(←)。 |
→ サマルカンドとブハラを結ぶ道路からブハラ側を見た風景です。当時のキャラバンの人々も同じような景色を見下ろしたのでしょうか?キャラバンは、シルクロードの横断に200日を費やしたと言われています。 |
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13世紀ごろのシルクロードのメインルート |
シルクロードのメインルートは、中国と地中海世界、特に、西安とアンティオキアをつないでいました。シルクロードは、西域あたりで、天山北路、天山南路、西域南道に分かれますが、この三つのルートは、再び交わってサマルカンドを通るのです。
シルクロードは、紀元前2世紀末に、漢の武帝が、遊牧騎馬民族の匈奴を西域から排除して開かれました。武帝は、数々の西域のもののなかから、一日に千里を走り、血のような汗を流すという汗血馬を欲しがったといいます。この馬がいたのは、大宛というところで、その場所は、現在のウズベキスタン、フェルガナ盆地あたりにあったのです。
そして、シルクロードによって、紀元後5世紀ごろには、東西陸上貿易と文化交流が恒常的に行われていたといいます。日本の奈良正倉院にあるペルシャガラスの瑠璃碗はこのころのものです。
しかし、東西交易の中心は、シルクやガラスから、莫大な利益をもたらす香辛料へと移り、インドとヨーロッパを結ぶ海上貿易が盛んとなって、やがて大航海時代を迎えるのです。 |