夫婦和睦の仲裁


 するとそこには召使ばかり居て誰もが居らんでしたが、その夜になってアルチュ・ラマが帰って来ました。実はこういう訳で盗人に逢いその後こうこういう所で犬に足を喰われたが何か良い薬があるまいかといいますと、アルチュ・ラマは親切に良い薬をくれました。「しかしこの塩梅では数日間ここに滞在しなければ歩くことが出来まい。ある犬は非常な毒を持って居りますから、まずその毒下しをしてあなたの身体に毒の廻らないようにしなけりゃあならん」
とアルチュ・ラマは慧海に注意しました。それじゃどうかそう願いたいといってそこで滞在することになりました。そのうちに薬の利(きき)目(め)か眼の痛みも少し癒ってきました。
 その翌日ラマに向い、「なぜあなたの奥さんは御自分の家に行って居られるのか」というとラマはいろいろ奥さんの行き届かないところを説明しました。どっちを聞いて見てもごもっともなように思われ、どっちが善いか悪いかということは慧海には一(いつ)向(こう)分らなかったのですが、
「とにかく男は心を大(たい)量(りよう)に持たなくちゃあならん、女を慰めて遣るのが道であるからまああなたからお迎えを出すのが宜しゅうございましょう」
といって、だんだん仏教の方から説きつけますと
「それはそうだ」
と言ってアルチュ・ラマは迎えの者を二人出しました。
 それで奥さんは漸くのことでその日暮に帰って来ました。その翌日慧海が浄土宗の三部経中の無量寿経(むりようじゆきよう)に説明してある五悪段というものは、チベットの経文中にないという話をしますと、
「それは誠に結構な事だから是非そのシナ仏教の経文からその五悪段の講義をしてくれないか」
とアルチュ・ラマは慧海に頼みました。それで慧海は毎日その講義をしてやりました。その五悪段というものはこの濁悪世界の悪人共がいろいろの手段を尽してする悪事を五つに約(つづ)めて適切にありがたく説明されてあるのです。そのなかには、例えば、

「第二の悪とは、世間の人々は、父子や兄弟や家族や夫婦がすべて義理を知らず、法律に従わず、贅沢であり、好色であり、高慢であり、放縦であって、各々快楽を求め、思うままに行動し、互いに欺し会い、心と口とがうらはらであって言葉に誠実さがなく、言葉巧みに媚びへつらい、賢者を嫉み、善人をそしり、人を陥れようとする。・・・臣下はその君主を欺き、子はその父を欺き、兄弟・夫婦・親しい友・親しくない友は皆、互いに欺き合う。かれらは皆、貪欲であり、憎悪をいだき、無智であり、自分の財をふやすことのみに専念して、さらに多くを貪る。身分の尊い者も卑しい者も、地位の高い者も低い者も、その心はすべて同様である。家庭を破壊し、身を滅ぼし、周囲の事情を顧みることをせず、親族や知己も巻き込まれて滅びるのだ。あるときは家族や友人や郷里の人々、町や村の愚者や生まれの賤しい者たちまで巻き込まれて事に従い、互いに利害にとらわれて怒り、憎しみや怨みをいだくのだ。富裕でありながら物惜しみして与えようとせず、宝石を愛し、高価なものを貪って、心は疲れ、身は苦しむようになる。・・・かくてかれらは、地獄界の火に焼かれる火の途、畜生界の相食む血の途、餓鬼界の刀に斬られる刀の途という三つの途において自然に無量の苦しみをなめる。」(無量寿経 中村元、早島鏡正、紀野一義訳)

とあります。
 その夫婦はその説明を聞いて毎日涙をこぼして自分の罪を懺悔し、ある時はほとんど後悔の情に堪えられないで暫く講義を止めてくれろといって二人とも泣いていたこともありました。
 「自分のした罪悪のために自分の心を責められるということは実に苦しい事でありますけれども、またそれは非常に善い事でそういう風に自分の心が苦しめられますと今度は善い事をするようになりますから、懺悔したのは実に感ずべき事だ」と慧海は思いました。そして、ちょうど十日ばかりここに滞在し、夜分などは実に素晴らしい雪と氷の夜景を楽しんだのでした。

 それからそのアルチュ・ラマの勧めでかの白巌窟に住んでいるゲロン・リンボチェ比丘尊者にまた逢いに行こうということになりました。同伴(つれ)も慧海も一緒に帰る予定でしたがその尊者のいわれるには、「今日は慧海に話があるから待って居れ」といいます。そこでラマ夫婦にはいろいろ礼などいって別れました。

続く



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