世界は波で出来ている。そんな不思議な世界を想像することで、ぼくたちが経験している現実世界の起原が見えてくる。現代物理学が辿り着いたゲージ理論が見せる自然法則の美しさを、凡人たびんちゅてらだの目を通してご紹介。天才が気にもとめない小石に幾度もつまづいた凡人だからこそ見せられる世界がここにある!

前作「インドの哲人の言葉たち−インド思想古典文学を辿る−」は、世界の始まりなどに思惟をめぐらせる形而上学と呼ばれるところの真実を追い求めたインドの哲人たちの残した言葉を辿ったものでした。


仏教の「空」を基礎的に理論付けたとされるナーガアルジュナによれば、わたしたちは?有るということ≠ニ?無いということ≠ノ執着しているようです。

『本質(自性)が諸々の条件(縁)と原因(因)とによって生じることは、理に合わない。
もし、本質が諸々の条件(縁)と原因(因)とによって生じるのであれば、それはつくられたことになる。

 どうして本質がつくられることがあろうか?
 本質それ自身はつくられるものではなく、他のものに依存しないのであるから。

 本質がないときに、他のものの有があろうか?
 他のものの有の本質は、他のものの本質(他性)なのであるから。

 自性と他性がないとき、どうして有があろうか?
 自性と他性とがあるとき、有が成り立つのであるから。

 有が成り立たないならば、無もまた成り立たない。
 有の変異したものを、無と、人は言うのであるから。

 自性と他性、および有と無、を見る人、彼らは、仏の説かれた真実を見ることはない。

 カーティヤーヤナの教えにおいて、有と無を知る勝者(仏)によって、「有るということ」と「無いということ」が否定された。

 本質上、或るものの有があるならば、そのものに無はないだろう。
 本質が変化することは、決してあり得ないからである。

 或るものの本質がないとき、一体、何が変異することがあろう?
 或るものの本質があるとき、一体、何が変異することがあろう?

 「有る」ということは、永遠(常住)に執着する偏見である。
 「無い」ということは、断滅に執着する偏見である。
 それゆえに、賢者は、「有るということ」と「無いということ」に執着してはならない。

 「本質をもって存在するものが、存在しなくなることはない」というのは、永遠性に執着する偏見である。
 「以前は存在していたが、今はない」というのは、断滅に執着する誤りが起こる。

 「有り」というのは永遠ということに囚われており、「無し」というのは断たれるとみることである。
 それ故に、洞察に長けた者は「有りということ」と「無しということ」に頼ることがない。』
(中論 本質(自性)の考察)

さて、現代物理学者たちは世界を見るのに数式を使っていると言ってよさそうです。
現代物理学者の目には世界の始まりのときには何が映るのだろう?
そこでは「真空」が重要な役割を演じているように思われます。
仏教の「空」と物理学の「真空」がどこか似ているようで個人的には面白い。
本書は「現代物理学者の数式たち」を絵本の形にすることを狙ったものと言えます。
兎に角、ゆるい素粒子たちの絵や波の形を眺めながら難解な波と粒の世界をのんびりと楽しんでもらえたら幸いです。


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